夏休みはとっくに終わっていた。夏の終わりの儚さは一体何から来るのだろう。
久しぶりのスウェーデンは相変わらず静かだ。
まだ日差しもそんなには衰えておらず、自宅の植物は友人が水やりに来てくれてたおかげで驚くほど成長していた。昔、長期休暇のあとに学校へ行くのがすごくドキドキしてどんな顔して友達に会ったらいいのか分からなかった感情は、今も自分の中に残っている。そして大人になった今、夏休みは子供の時より大幅に長くなり(しかも今年は諸事情でさらに少し延ばした)仕事場に行く足取りもとてもぎこちなるのだが、2ヶ月強は会ってない同僚たちと会えるのは嬉しくてお互いに再会を喜んだ。
またここへ戻ってきた。「家」から「家」へ。
それぞれの「家」の持つ意味はもちろん違う。ヨーロッパでの生活は10年を超え、今はスウェーデンに生活のほとんどの基盤がある。実際日本から戻ると、落ち着く面も正直ある。日常。日本という国についてはここ最近自分の中で「生まれ故郷」的な特別な地位を得て存在している。その感覚は日本にずっと住んでたら生まれなかったかもしれない。だから、夏休みのこの2ヶ月間の出来事すべては故郷で起きた、という憂を持たせて少し余計にドラマチックに語ることだってできる。ホームシックへもってこいの種である。
この毎年繰り返される家間の移動は私には本当に大事な意味を持つのだ。行ってきますとただいまを言えるの本当の家。 それがあるということ。